地域にコミットする宿泊施設の可能性
ゴールデンウィーク最終日ともなると、宿内はずいぶん落ち着くものです。
ブログの更新もままならないほどに、沢山の方々がお越し下さり、
毎日まいにちが、思い出深い出会いの連続となりました。
そんななか、地方都市でゲストハウスの開業を考える女子もお越し下さいました。
栃木、広島、少し前ですが滋賀県で考えていらっしゃる方も。
「これからは地方の時代」
なんて騒がれつつ、本屋で“地方”にクローズアップした本を手に取ることも多くなってきました。
ただ、たまに思うことがあります。
「地方」って何なのでしょう。
東京などの“中央”の対極にあるものが“地方”なのか、
では“地方”と“田舎”の違いって何なのか。
現状、自分なりに思うところをここに示しておきたいと。
“都市”という言葉から連想されるのは、高層ビルやスーツを着てせわしなく歩く人たちや、キラビやかにディスプレイされたウィンドウ。
“田舎”という言葉から連想されるのは、風に揺れる稲穂や、澄んだ小川、平屋で広い庭のある古民家。
“都市“や”中央”の対局にあるのが“田舎”なような気がします。
では“地方”とはどういうイメージか。
そこがけっこう難しい。
長野市も“地方”であるし、例えば長野県小谷村も“地方”である。
でもその両者での生活の仕方やイメージできるものはおそらく違いが多いと思う。
そうこうしているときに読み返そうと思ったのが、
西村佳哲さんの『いま、地方で生きるということ』(ミシマ社 2011年)だ。
読み進めていくと巻末の西村さんとミシマ社社長の三島さんのやりとりのなかに、
こんな文章を見つけた。
(引用)—「東京」対「地方」のような二項対立的な価値観の中で、良さであったり課題を語ることが多い気がしていて。そこに違和感があった。別に東京を引き合いに出さなくてもいいんじゃないか。どっちがいいとか、これからはどっちだといった話ではないものが、たくさんあるんじゃないか。中間的な場所も多いわけだし
また、こうも西村さんはこうも書かれていました。
(引用)—「これからは地方の時代」といった言葉をよく耳にしてきたけど、僕は全然ピンとこないんですよ。中央に集められた権利や利益を取り戻す時代なんだ、とか言っていたらなにも変わらない気がして。「時代」という言葉を使っている時点で、それもいつか終わることを含んでいるし。とてもぼやっとした言葉だなと思う。僕に見えているのは、“身近で具体的なものに、エネルギーと時間を使う人が増えてきている”ということです。
この文章で私のなかでモヤモヤっとしていた部分が「そうだ!」と晴れました。
“地方”=“身近で具体的なものにエネルギーと時間を使う人の多い場所”
という式が成り立つかはわかりませんが、
少なくとも今私が長野市という地方に住み、
考えることはこのことです。
少し頭を整理しつつ、
【宿泊という視点から見た、これからの地方の可能性】
について、もう少し考えたいと思います。
先にも書いたとおり、“都市がいい”とか“田舎がいい”、そういうことではなく、
この“身近で具体的なものにエネルギーと時間を使う人の多い場所”、つまりその“地方”に深くコミットした宿泊施設を作ることで、
その地方の可能性がどのように広がるか、考えて行きたいと思ってます。
ブログの更新もままならないほどに、沢山の方々がお越し下さり、
毎日まいにちが、思い出深い出会いの連続となりました。
そんななか、地方都市でゲストハウスの開業を考える女子もお越し下さいました。
栃木、広島、少し前ですが滋賀県で考えていらっしゃる方も。
「これからは地方の時代」
なんて騒がれつつ、本屋で“地方”にクローズアップした本を手に取ることも多くなってきました。
ただ、たまに思うことがあります。
「地方」って何なのでしょう。
東京などの“中央”の対極にあるものが“地方”なのか、
では“地方”と“田舎”の違いって何なのか。
現状、自分なりに思うところをここに示しておきたいと。
“都市”という言葉から連想されるのは、高層ビルやスーツを着てせわしなく歩く人たちや、キラビやかにディスプレイされたウィンドウ。
“田舎”という言葉から連想されるのは、風に揺れる稲穂や、澄んだ小川、平屋で広い庭のある古民家。
“都市“や”中央”の対局にあるのが“田舎”なような気がします。
では“地方”とはどういうイメージか。
そこがけっこう難しい。
長野市も“地方”であるし、例えば長野県小谷村も“地方”である。
でもその両者での生活の仕方やイメージできるものはおそらく違いが多いと思う。
そうこうしているときに読み返そうと思ったのが、
西村佳哲さんの『いま、地方で生きるということ』(ミシマ社 2011年)だ。
読み進めていくと巻末の西村さんとミシマ社社長の三島さんのやりとりのなかに、
こんな文章を見つけた。
(引用)—「東京」対「地方」のような二項対立的な価値観の中で、良さであったり課題を語ることが多い気がしていて。そこに違和感があった。別に東京を引き合いに出さなくてもいいんじゃないか。どっちがいいとか、これからはどっちだといった話ではないものが、たくさんあるんじゃないか。中間的な場所も多いわけだし
また、こうも西村さんはこうも書かれていました。
(引用)—「これからは地方の時代」といった言葉をよく耳にしてきたけど、僕は全然ピンとこないんですよ。中央に集められた権利や利益を取り戻す時代なんだ、とか言っていたらなにも変わらない気がして。「時代」という言葉を使っている時点で、それもいつか終わることを含んでいるし。とてもぼやっとした言葉だなと思う。僕に見えているのは、“身近で具体的なものに、エネルギーと時間を使う人が増えてきている”ということです。
この文章で私のなかでモヤモヤっとしていた部分が「そうだ!」と晴れました。
“地方”=“身近で具体的なものにエネルギーと時間を使う人の多い場所”
という式が成り立つかはわかりませんが、
少なくとも今私が長野市という地方に住み、
考えることはこのことです。
少し頭を整理しつつ、
【宿泊という視点から見た、これからの地方の可能性】
について、もう少し考えたいと思います。
先にも書いたとおり、“都市がいい”とか“田舎がいい”、そういうことではなく、
この“身近で具体的なものにエネルギーと時間を使う人の多い場所”、つまりその“地方”に深くコミットした宿泊施設を作ることで、
その地方の可能性がどのように広がるか、考えて行きたいと思ってます。